「当たり前の幸せ」は一番の幸せだと、40歳になってつくづく思います。
自分が持っていないもの、不足しているものに嘆いてくら〜い気持ちになってしまって、ドツボにハマってしまう時もあるのですが、これはまた贅沢な悩みであるのだと我に帰るのです。
身体のどこも痛くなく自由なこと
風邪を引くとなんとも怠くなって、動くのも辛い、食べ物も美味しくない、考えることができない状態になります。こんな時にふと気がつくのですが、
「健康であることのありがたみ」です。
普段は、どこも痛くなく、辛くなく、好きなことができますし、頭も回転してくれ難しいことも考えることができます。
そして、人間いつまでも健康体ではいられないのもまた事実。
年老いる時が徐々に、少しずつ、確実に進行していて、歩くスピードも遅く、距離も短く、気力も少なく、頭も回転しなく難しい判断ができなくなっていきます。
今できることが未来もできるわけではない。
体力を使う趣味とか、いつまでもできるわけではない。
今できることは、実は今が人生の中での少ないチャンスなのかもしれないと考えております。
毎日、朝が訪れること
例えば、人生が80年だとして、今の年齢だと残された期間は40年です。
朝が来るのは後、14,600回位です。
もし現在私が75歳だとして、人生が80年だと仮定すると、後朝が来るのが1,826回
もし現在私が80歳だとして、人生が80年だと仮定すると、朝が来るのはあと数日〜数十日です。
人は毎朝生まれ変わったのように、昨日までをリセットできて、新しい朝を迎えることができる。
でもそれは有限であることを忘れてしまってます。
そして、私は人生を何年生きるかを自分で選ぶことはできませんが、希望は100歳までは生きたいです。
自分で稼げて食べていけること
自分で稼げるようになって、自由を手に入れることができました。
完全な自由ではなくとも、それでも相当な自由です。
自分の稼ぎの限りで自由な場所に住むことにでき、
自由な食事を取ることができ、
自由に好きなことができます。
自分の努力でどうにかなる範囲のことは、自分で稼げることで手に入れることができます。
私の母は72歳でして、現在は働いてませんが畑で野菜を作って生活の足しにしてます。
母と同世代の友人は70歳を超えてもまだまだ働いてます。
介護の仕事をしたり、売店で働いたりと、もう年金生活ができて、田舎の家賃もかからない家に住んでいるにもかかわらずです。
もう歳ですし、大きな出費もないでしょうし、なぜ働くかと問いたいですが、
仕事は本来辛いものではないのでしょうか。居場所の一つなんだと思います。
家族がいること
私は結婚をしていないので、新しい家族は作れていません。
しかし、実家に親がおります。
ちなみに私は父親との縁が薄く、ほとんど親らしいことはしてもらったことはないですが、まだどこかで生きているのだと思うと、それはそれでほっとするのです。
私が好きな本の中で、一人で住むおばあさんが、風邪をひいて一人で眠っているときに見た夢で、自分が小さい姿になって、りんご畑で遊んでいると、随分前に亡くなった母親の姿を見つけるのです。おばあさんは夢の中で「お母ちゃん!!」と呼ぶと、夢から覚めるのです。
おばあさんになって、家族がいなくなっているその姿が、もしかしたら未来の自分なのかもしれないですが、おばあさんが一人で暮らすなんて姿は田舎ではよく目にします。
それが不幸なことではないと思ってますが、
我が家は、その時は大家族で暮らしていたので、側から見て寂しそうでした。
でも大家族で暮らしていた日々は、私にとってももう随分と昔のことです。
でも離れていても家族がいることは、どこかへ帰る場所があると思えるのです。